1995年 1月の阪神淡路大震災の衝撃から 30 年の月日が流れました。 私自身は、当時勤務していた東京の大学病院の震災支援チームリーダーを務めました。 それとは別に、小児科医、産婦人科医、臨床心理士、医学生などから構成される CHAGE という支援グループを作り、東京から神戸市長田区の避難所になった小学校にボランティアとして通い続けました。
日本各地から数十万人のボランティアが駆けつけました。 想定もしていなかった、それだけ多くのボランティアを受入れるシステムはありませんでした。 何をすればいいのかわからず、右往左往しているボランティアも少なくなかったです。 それでも、温かく声をかけてくれる地元の被災者がいました。 地元の被災者と駆けつけたよそ者の協働の物語があちこちで生まれました。 阪神淡路大震災が「ボランティア元年」といわれる所以です。
保健医療面では、反省点も少なくありませんでした。 国際緊急援助隊の経験者たちは、「防ぎえた災害死」が少なくとも 500 名以上いたという悔恨の念をバネにして、その後の災害派遣医療チーム DMAT (Disaster Medical Assistance Team) の設立につながりました。
阪神淡路大震災から 30 年。能登半島地震の支援の現場において、災害時には全国各地から多くのボランティアが被災地に駆けつけるという風景は一変しました。「ボランティアに行くと迷惑がかかる」、「被災地ではボランティアを望んでいない」といった風説は、ボランティアを志す人たちの気持ちを凍らせました。 一度、途切れた思いをなかなか元に戻すことが難しいまま 1 年が過ぎていきました。
第 32 回 ワン ・ ワールド ・ フェスティバルのセミナーにおいて、「だれひとり取り残されない災害支援 : 能登半島地震支援の現場から」を行います。 2024年度の WHO 世界保健デーのテーマは「My health, my right (わたしの健康、わたしの権利) 」でした。 2024年 1月 1日に発生した能登半島地震で被災された方々の健康と暮らしは、どのように守られていたのでしょうか? 石川県珠洲市に常駐し、避難所巡回、仮設住宅や在宅の戸別訪問、コミュニティ支援のための茶話会の開催など支援の最前線で活躍している看護師さん、被災地でボランティア活動を行ってきた学生さんにお話しいただきます。
日本 WHO 協会は、大阪梅田スカイビル ・ タワーウェスト 3 階でブース展示を行います。 2月 8日 (土) ・ 9日 (日) に近隣を通りかかった方は、WHO 協会ブースに気軽に顔を出していただけると幸いです。 皆さま方とお目にかかってお話しできる交流の機会があることを期待しています。
公益社団法人 日本WHO協会
理事長 中村安秀